あきらめのすすめ

震災から1年経ちました。私はこの1年、極めて普通に暮らしました。
地元で取れた野菜を食べ、4年暮らした第二の故郷であり、地震の被害も大小問わずあった福島に想いをはせながらも、仕事をして、食って、寝て、遊んで、勉強して、そんな毎日を過ごしてきました。

繰り返された「がんばろう日本」「つながろう日本」…なんだろうこの違和感?と。このフレーズに違和感を感じた人、いますか?

繰り返されるフレーズが、重く、とても軽々しいのです。
そして震災一色に染まる報道… わたしは辟易していました。

だから、普通に暮らすことが、今回の地震の諸々の復興などを支える一番の方法だと、感じざる得ませんでした。だから私は3月の段階で「あきらめよう東北」「あきらめよう日本」というメッセージを出していました。勿論、顰蹙を買うことを承知で。

「諦め(あきらめ)」の「諦」は、「真理」という意味です。それは「四苦八苦」「一切皆苦」というように、苦しみから逃れられない、生きていること自体が苦しみである我々の、「苦」を軽減し、乗り越えるという意味があります。これを四諦と言い、簡単に言うと

「苦を知り尽くし」(遍知)
「苦の原因を滅し」(滅除)
「苦の軽減を実現し、」(成就)
「苦の軽減を実践すること」(修習)
の4段階です。成就・修習は意味がなんとなく分かりますよね。

だから、「あきらめよう東北」「あきらめよう日本」は地震災害を、苦しみを軽減しながら乗り越えよう、というメッセージです。

地震も、苦しみも、悲しみも、喜びも、なにもかもをありのままに受け入れる。それが「あきらめ」の意味するところです。「あきらめ」をすることで、人は再スタートを踏み出せる。心の負担を軽く出来る。そう想ったからです。
諸行無常」という言葉があるように、全ての物は変わらずにはいられないし、いつかは消えて無くなるのだから、それをコントロールすることは、私たちにはできないだけなのです。

昨日は震災から1年ということで、各地で集会なりデモなり行われていたようです。テレビ局も「一周忌法要」モードでした。

でもテレビ局にも日本人にも「感傷的になりなさいよ」「弔いなさいよ」という空気を強制するような違和感が線香のようにぷんぷんとそんな匂いを感じてしまったのです。


私はそこに「大衆迎合的で盲目的な日本人」の怖さを見てしまったような気がしてならないのです。「がんばろう日本」と言えば「がんばろう日本」と言い、「つながろう日本」といえば「つながろう日本」という。「原発廃止」といえば「原発廃止」という。こだまでしょうか?

いいえ、私には「無邪気な愚かさ」しか感じられません。

「がんばろう」って何をがんばるのでしょうか。がんばっている人はたくさんいるでしょうが、私には愚かな「キャッチフレーズ」のようにしか聞こえてこないのです。がんばるは「我を張る」という意味です。「自分を貫き通す」という意味で、頑固な意味の言葉なのです。「がんばる」は津軽弁で「じょっぱる」と言います。「じょっぱり」は頑固者の代名詞です。良い意味もありますが、頑固も行きすぎると苦しくなってしまいます。苦しみを軽減するどころか、新しい苦しみを生み出します。

「つながろう」の「つなぐ」は、つなぐものは何でしょう。日本語の語源では、「鎖」ですし、英語の語源でも "link""chain"…鎖です。 無理につながろうとしても、がんじがらめになって、動けなくなってしまいます。無理につながらなくていいのです。

原発廃止」、まるでインフルエンザのレベルでみんな原発廃止というのですが、根拠はなんでしょう。原発の何が危ないのか、原発のリスクは何なのか、原発で得られる利益は何なのか、多くの人はそこを気にせずに、ただ「廃止」「反対」と言います。まず、賛成反対の前に、疑って欲しいのです。「なぜ危ないのか」、「なぜ必要なのか」、と。

日本人は「大衆迎合的」と言われます。
右向け右、左向け左のように。

「まわりが『○○』っていいよね」と言っていると、自分は好きじゃ無くても「いいよね」と同調する。反対したらつまみ出される。仕打ちをくらう。それが日本です。

「どうせだれかがやるだろう」 だれが?

「どうせだれかが責任を取るだろう」 だれが?

そんな日本人の姿勢の縮図が、今の日本の政治だったり、経済だったりするわけです。

「政治家がバカ」なんじゃなくて、「私たち日本人が愚かで、学習しない」
それだけのことなんです。だから政治の現場では、ちゃんと対応出来ないし、諸外国に見放されるのです。

「愚痴」という言葉があります。これは「知恵の無い愚か者の行動」という意味があります。愚痴を言っている限りは前に進めません。

私たちは「賢く」ならなければなりません。「知恵」を付けなければなりません。地震を「あきらめ」、復興を成就させるためにもです。


1年前の地震は、日本人に「賢くなる」「知恵を付ける」機会を与えたと、解釈しても良いのかもしれません。

私も、高田の親戚が甚大な津波被害に遭いました。全員無事だったとき、本当に本当によかったと、頭を垂れました。

かけがえのない人たちのためにも「あきらめ」…地震も、苦しみも、悲しみも、喜びも、なにもかもをありのままに受け入れ、前に進んでいこうではありませんか。

「あきらめよう東北」「あきらめよう日本」と。